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第7話 入口に出口の看板

Author: 八月 猫
last update publish date: 2026-07-03 09:00:38

玲央さんは少しだけ姿勢を正した。

その仕草だけで、空気が変わる。

ラウンジの灯りは柔らかい。テーブルの上には水のグラスが二つ。窓の向こうでは夜景が静かに光っている。

なのに、目の前の話題はまったく柔らかくない。

「期間は三か月。結婚が目的ではなく、婚約破棄を前提にした婚約です。必要な場では俺の婚約者として同席していただく。ただし恋愛的な接触や私生活への干渉はしません」

婚約破棄を前提にした婚約。

私は思わず、その言葉を頭の中で繰り返した。

すごい。

入口に出口の看板が立っている。

「解消する時は」

「俺の都合として処理します。あなたに非がある形にはしません。必要なら書面にしますし、弁護士も入れます」

「本気で言っていますか」

「はい」

軽くない返事だった。

私は思わず玲央さんを見る。

柔らかい顔立ち。穏やかな声。優しそうに見えるのに、この人はおそらく決めたら動く。

さっき静華さんが言っていた。

見た目より頑固で、決めたらなかなか曲げない。

今、その意味が少しわかる。

「ですが、私の名前が出た時点で傷は残ります。あなたは鷹宮家の人です。私が誰であれ、後で婚約破棄となれば周囲は好きに言います」

「そこは俺が責任を持ちます」

「持てるんですか」

少し鋭い声になった。

玲央さんは怒らなかった。

「持てるようにします。今の時点で、あなたの生活や仕事にどういう影響が出るかを俺は把握していません。だから今ここで完全な保証はできません」

正直だ。

正直すぎる。

「調べてないんですか」

「はい」

「私のことを何も知らないまま、婚約契約を持ちかけたんですか」

「はい」

「勢いで財閥を動かさないでください」

玲央さんが一瞬だけ黙った。

それから、とても小さく笑った。

「返す言葉がありません」

「返してください。怖いので」

私も疲れているのだろう。相手が鷹宮家の御曹司だとわかっているのに、口が止まらない。

けれど玲央さんは不快そうではなかった。むしろ少しだけ楽しそうに見える。

「琴葉さん。俺は今、かなり無茶な提案をしています。だから断っていただいても構いません。ただ、あなたにも今夜の出来事をこのまま相手側の物語にされる理由はないと思いました」

胸の奥が静かに反応した。

相手側の物語。

陽斗はきっと、私がわかってくれたと言う。莉愛さんは申し訳なさそうに目を伏せる。周囲は成功した男の新しい恋を、少しだけ美しいものとして消費する。

私はその中で、過去の女になる。

地味で、今の陽斗には相応しくなかった女。

それは嫌だった。

「あなたは、どうして私に声をかけたんですか」

「ちょうどそこにいたからです」

私は無言で玲央さんを見た。

正直にも限度がある。

玲央さんは少しだけ目を伏せた。

「最初はそうでした。ただ、あなたは母の前で逃げませんでした。俺の都合に巻き込まれたのに、自分の言葉で立っていた。だから、この人なら交渉できると思いました」

褒められているのか、契約相手として査定されたのか。

たぶん両方だ。

私は水を一口飲んだ。

冷たい水が喉を通って、少しだけ頭がはっきりする。

「三か月」

「はい」

「結婚が目的ではなく、婚約破棄を前提にした婚約」

「はい」

「恋愛的接触なし。解消時はあなたの都合。私に不利益が出た場合は対応する。書面化する」

「その通りです」

私は左手の指輪を見た。

陽斗と選んだ指輪。

もう未来ではないもの。

その隣に、今日初めて会った男との婚約契約が並ぼうとしている。

どう考えてもおかしい。

でも、今夜の私はもう十分おかしい場所に立っていた。

「条件を追加します」

玲央さんの目が少しだけ鋭くなる。

「聞きます」

「私は、あなたの所有物にはなりません。あなたの母親や家の都合で動くとしても、私自身の意思は必ず確認してください」

言い終えたあと、胸が少しだけ痛んだ。

陽斗の前で、私はそれを言えなかった。

隣に立つ人を選ぶ権利。自分がどう扱われるかを決める権利。

それを、今さら知らない御曹司に向かって言っている。

玲央さんはまっすぐに私を見た。

「約束します」

短い言葉だった。

けれど不思議と軽くなかった。

「では、もうひとつ」

「はい」

「契約書を作ってください。口約束では信用できません」

「もちろんです」

「あと、私には考える時間が必要です」

「三十分以内でなくても構いません」

「お母様には?」

玲央さんは、初めて少し困った顔をした。

「……そこは、俺が叱られます」

ちょっと可愛いと思ってしまった。

不覚である。

私はグラスを置いた。

「では、今夜は条件だけ聞きます。契約するかどうかは、書面を見てからです」

「わかりました」

玲央さんは静かに頷いた。

その横顔を見ながら、私は思った。

捨てられたその夜に、別の男と婚約破棄前提の婚約を相談する。

普通に考えれば、完全に事故だ。

でも、この事故にハンドルがあるなら。

少しくらい、自分で切ってみてもいいのかもしれない。

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